移リ木徒然

思ったことをかくやつ

怖いことがあるのなら見つめた方が早い

怖いって思うのはいろんなところから仕入れた情報と自分との乖離で、やってはいけないことってしてるから、それをやってる自分が本当に怖い。

情報との照らし合わせで自分を裁いて裁いて裁き倒して。

人の悪意に満ちた否定を真っ直ぐ喰らって更に倒れそうになって。

でもうそういうのぜーんぶ炙り出されることがあって。

ただの推し活なんだけどーー

情報戦とか、人の想いとか、自分は結局どうしたいのかなって考えさせられることがいっぱいあって。それが前までの凄まじい感情揺さぶられてるブログだけど。あそこからちゃんと深いところまで手を伸ばして色々反転させていった。

ここに明確に載せておけばそれはそれで良いんだろうけど。やろうと思うと気分が悪くなるからまた別の形で出した方が良いんだろうなこれ……。

 

私はさ、学生の頃それはそれは生き生きと生きてたし、初めて熱中できることにも出会て、それを死ぬまでやっていきたいって思ってた。でもそうはならなくて、試行錯誤してその時に立ち返ろうとしてたんだよ。

今の私の見る、その時の私っていうのはどんな物だったか形を辿って、そこに押し込めてっていうことをこの数年ずっとしてきた。

だけど結局、私はそんな形の人間ではなかったってことなんだよね。

絶望したり、傷ついたりして形が変わったわけじゃなくてさ、本来の質が出てきたって言う方が正しかった。

人のいろんな性質をさ、治すべき病だという情報もあるけどさ。

私にとってはその情報こそが地獄だったよ。

それがあるから不幸になります、それを治せば幸せになります。

こんな情報、私にとっては何の価値もない。

ずっとそれ分かってたから本当に嫌いだったけど、現実が本当に辛かったし焦っていたし怖かったから、そういうモノに寄りかかっていたんだなって思う。

結局は自分次第ってそういうことで。

どれだけ怖くても、眼を逸らしたい現実があっても、自分の心とちゃんと繋がっていることが一番大事なことなのだなと思い知った。

だからこそ、私はちゃんと私の持って生まれた質を生かして生きていく。

自分をちゃんと愛し抜く。

 

 

今の私は愛の正当性に救われているんだろうなって思う。

 

今までは何よりも正しさに重きをおいてたのに。どう考えても愛に正しさを置く方が絶対に生きやすい。私の性質的に。正しいとか正直どうでも良いもん。突き詰めれば存在しないじゃん。誰?ってなる。正しさって恐怖だな。私は。そして平等なんてもんはない。