移リ木徒然

思ったことをかくやつ

決めたらそうなる

最近ありえないくらい怖くて

どうにかしようとして走り回って

1人でトムとジェリーしてるみたいな感じだった。

 

身体がどうなってるのかも分かんなくて

怖いって思ってることすらも把握できてなくて

ずっとパニック!

 

ほめレンさんのラジオ聴いてたら

https://r.voicy.jp/5P9aWko1KeQ

そうだ!そう思ったらそうなる!なんだー!!

ってすごい体に染み渡って落ち着いた!

 

どうしたって私は幸せにしかならない!

今日の気づき

久しぶりにブリちゃんの歌聴いたらやっぱり好きー!って気持ちでいっぱいになった。

楽曲も良いし、たれ目なのも可愛いし、セクシーなのが本当に好きすぎる。

曲調がね本当に好きしかないよね。ずっと聴ける。


www.youtube.com

 

今日も今日とて自分のやりたいことをやりつつ、自分の中にある怖いに沈んでいる日だった。これは、マイナス思考やネガティブに振れるためじゃなくて、自分が何を思っているのか知るためにやってることなんだけど、自分を知るってことに凄まじい恐怖があるからさやってると恐怖に身体が覆われていくんだよね。たださ、今までは怖いって感じるのは悪い事だからって途中でやめてたんだけど。やりまくってる今は、本当に恐怖は向き合ってその先を見ていく方が早いなって思う。

 

そんな中でもさすぐに突き抜けられるわけじゃなくてモヤモヤとか、身体の中で何かがぐるぐるしてわーっ!!!!ってなっちゃうときもいっぱいあって。今日もなってた時にふと見た女神まり愛ちゃんの動画の話がね。すごく良かった。

原因が分からない恐怖の話してて。
今私のやってることと一緒じゃんって思ってさ。そういう時ってヒントあるからね。
恐怖がすごいから、瞑想して恐怖の底に辿り着いて、恐れの底はそれ以上ないってことが分かって癒されたって話。ここ、私も本当に一緒だなー。って思ったのよ。


www.youtube.com

怖いことを避けるために何かをすることはさ怖いことがどんどん大きくなってくから。
怖いことを怖いと思って大丈夫ってして対峙するのってやっぱり大事で今やってることオールオッケーなんだー!って思ったのでリンクを貼っておくね。

あと、恐怖が肥大化するってさ迷家ってアニメも本当にそういう話だったよね。観た当時も確かに思ってたんだけどね(笑


www.youtube.com

 

そうしながらも、もやもやが続いてるからさ、体感に潜りながら色々みてたら。

私、多少苦しくても仕方ないとか、無理矢理頑張らないといけないとか、すごい思ってるなってことに気づいて、いや、私そんなのやだ!!労せずできることで簡単に為して仕事にしたいってすっごく思ったのよ!それすごい良いー!って思いながら風呂入ってたらほめ❤レンさんの生放送が始まってさ。聞いてたら「苦しいことが人を幸せにすること」の定義になってる、「本当は、自分を幸せにするのが大事」頑張ってるから褒められる、頑張ってる自分を犠牲にして何かをしたから人を幸せにするって概念があると思うけど、本当は人を幸せにするのに自分を犠牲にする必要はない。自分が幸せなまま人を幸せにすることができるよって話してて。

思ってることパーンって出てきたから良しと思ったのでした。


www.youtube.com

怖いことがあるのなら見つめた方が早い

怖いって思うのはいろんなところから仕入れた情報と自分との乖離で、やってはいけないことってしてるから、それをやってる自分が本当に怖い。

情報との照らし合わせで自分を裁いて裁いて裁き倒して。

人の悪意に満ちた否定を真っ直ぐ喰らって更に倒れそうになって。

でもうそういうのぜーんぶ炙り出されることがあって。

ただの推し活なんだけどーー

情報戦とか、人の想いとか、自分は結局どうしたいのかなって考えさせられることがいっぱいあって。それが前までの凄まじい感情揺さぶられてるブログだけど。あそこからちゃんと深いところまで手を伸ばして色々反転させていった。

ここに明確に載せておけばそれはそれで良いんだろうけど。やろうと思うと気分が悪くなるからまた別の形で出した方が良いんだろうなこれ……。

 

私はさ、学生の頃それはそれは生き生きと生きてたし、初めて熱中できることにも出会て、それを死ぬまでやっていきたいって思ってた。でもそうはならなくて、試行錯誤してその時に立ち返ろうとしてたんだよ。

今の私の見る、その時の私っていうのはどんな物だったか形を辿って、そこに押し込めてっていうことをこの数年ずっとしてきた。

だけど結局、私はそんな形の人間ではなかったってことなんだよね。

絶望したり、傷ついたりして形が変わったわけじゃなくてさ、本来の質が出てきたって言う方が正しかった。

人のいろんな性質をさ、治すべき病だという情報もあるけどさ。

私にとってはその情報こそが地獄だったよ。

それがあるから不幸になります、それを治せば幸せになります。

こんな情報、私にとっては何の価値もない。

ずっとそれ分かってたから本当に嫌いだったけど、現実が本当に辛かったし焦っていたし怖かったから、そういうモノに寄りかかっていたんだなって思う。

結局は自分次第ってそういうことで。

どれだけ怖くても、眼を逸らしたい現実があっても、自分の心とちゃんと繋がっていることが一番大事なことなのだなと思い知った。

だからこそ、私はちゃんと私の持って生まれた質を生かして生きていく。

自分をちゃんと愛し抜く。

 

 

今の私は愛の正当性に救われているんだろうなって思う。

 

今までは何よりも正しさに重きをおいてたのに。どう考えても愛に正しさを置く方が絶対に生きやすい。私の性質的に。正しいとか正直どうでも良いもん。突き詰めれば存在しないじゃん。誰?ってなる。正しさって恐怖だな。私は。そして平等なんてもんはない。

 

嘘つきは嫌い

やりたいことをやりたいようにやれないなんてクソみたいな人生じゃない?

これは本当にやりたいことじゃないかも、上手くやれないかも、何かの言葉に流されて、それっぽい言葉に脳内支配させて、ずっと頭ん中うるさくて。

良い子になろうとして、それなりに幸せであれば良いかなんて。

本当にめちゃくちゃかっこわるい、死ぬほどダサイ。嫌いでたまらない。憎くてたまらない。生きてても意味がない。殺したくってたまらない。そんな風に生きるなら死ねばって思う。毎日殺したい程に腹が立ってたまらないのは自分自身。

誰かの何かに腹が立ってたまらないのも。

ここにいることに吐き気がするのも。

全部自分に腹が立ってる。腹が立つ時は素直に腹を立てた方が良い。

人が好きって言っても嫌いなものは嫌いなままでいい。

好きな人に腹が立つ部分があったら腹が立てばいい。

気に喰わない、殺したい程憎らしい物があるなら究極殺したいって思い続けたってかまわない。

心の在り方を、美しく平坦に、そうやってはかって、私は何も悪いことはしていません。美しい人間ですなんてマネしてんの、死ぬほど卑怯、大っ嫌い。

間違ってても自分の芯を持っている方が良い。

自分の在りたい様にある方が良い。

揺るがない方が良い。

良い人なんかになりたくなんてない。

何もかも気にくわない、誰も彼もが嫌い、分かったような言葉も全部嫌い。

誰かが大丈夫って言ってる言葉に寄りかかりたくない。

ていうか誰の言葉もいらないし、多くの人間の正当性に支配されたくないし、

金に隷属したくもない。

全部、全部、全部ぶっ壊したい!!!!!!全部大っ嫌い!!!!!!!!

 

平坦にまとめる気なんてない。吐き気がするほど大っ嫌い。

全部嫌い。何もかも嫌い。全部嫌い!!!!!!!

 

私のこの気持ちを、私自身を、私の怒りを、私の不服を、私の意見を、変な正当性で丸め込もうとしないで。

私は私のために生きたい。

私は私として生きたい。

 

愛されるために奪おうとする姿勢は自分を殺し続けるし。

結局何も手に入らないよね。

誰かのためにが誰のためにもならないってそういうこと。ずっと分かってたでしょう。

そんな風に生きても何にもなれない、全部知ったような顔をして嘲笑ったって何も自分の中に残らない。本当に馬鹿なのは自分って知ってるでしょう。

誰かに嫌われても、めちゃくちゃに怖い思いしても、恐怖の中に入っても

世界中の人にお前は来るって言われても

自分の心に従う方がきっと生きやすい

私が世界平和の中心にならなくても良い

私が正しいものにならなくていい

ていうか正しいなんて存在。正解なんて存在しない。

結局、自分を満たすためにしか自分は生きられない。

 

だからめちゃくちゃ自分で生きたいーーーーーー!!!!!!!!!!!

 

何か本当に綺麗にまとめようとするのやめて。懸命に生きて。

ソート機能の有効活用

忘れそうなので備忘。

 

頭の中のソート機能。

ソート機能にバグが起きるのは【恐怖】を感じる時。

微細な恐怖から、過去を取り出す算出が起きて、ソート機能がバグって現在に落ちてくる。

簡単に言うとソートの【高】【低】の自分の安定していた基準が【恐怖】の【高】【低】でソートされることによって、自分の大切にしていたものや価値基準みえていたことのあらゆるところに不和をきたす様になる。

それを元に戻す、つまり、何を【高】とするのかを決めるのが【ゴール設定】なんだと思う。

 

自分が何に恐怖を持っているのかを知るのも良いし。

そもそもゴール設定するときに自分が何のソート機能を使っているの気づくのも大事だよね。

本来自分がこうしたいと思うソートの順位が【恐怖】によってバグっている時は、違和感を感じるから察知して、恐怖に囚われてるなって気づいて。

何をソートの【高】に持っていきたいかを考える!

 

という、ソートと、持ってる偽物の恐怖を思い出す。

自分を満たす

www.youtube.com

自分を満たすこと、人を満たすことがすっごく分かりやすく語られてた!

このチャンネルの考え方が大好きでずっとみていたんだけどドンズバで分かりやすかった。

何か、人に与えないといけない、人に与えないといけない、自分の全てを人に対してどうか、他人ファーストで考えて実行しないといけないって思ってたんだけど、全然違うんだなって。

だからこそ、自分を罰する必要はない。

どうあるべきとか、良い人とか、自分を満たしたあとに勝手に表れるものなんだなって思う。

私の場合も自分を満たすってことだと思ったな。

でも、自分を満たすためには、誰かの訳に立たないと誰かに渡さないとって、全部私切って他人に貢献できることができて初めて自分を満たすことができるって考えが重重だったんだなーってすっごく思ったー。

なにもかも誰にもためにもならない時間をとりたい。

与えること

与えることを考えれば自然に自分は得ることになる!

それは、知っている~~~!!と、思わず思ってしまった。

それに、息が詰まるほどの引っ掛かりを感じるから困ってしまう!

く、苦しい~~!!!

自分のしている行動が結果的に誰のためになるのか。
そして、何を思ってこの苦しいは発生しているのかを因数分解してみようと思う。

 

私は根本的に、自分は苦しいままで他人に何か貢献することを与えることだと思っている。お金を払ってサービスを受けることも私にとっては与えることだ。というか、対価を払って得る。それはどんな関係性であるにせよ最低限の礼儀だと心得ている。何かをそのまま貰うなど許せない。他人から何かを奪っていることになるからだ、何かを渡すということは、その裏で何かを得ようと考えている。それか日頃の感謝があるかとか。自分はどうかと考えてみると、普段色々なものを貰っているからお礼の気持ちを込めて渡すことが多い。お金をかけて何かを渡して愛されようと思ったこともある。何を思ったか漫画の全巻を渡したこともあるし……その時は、渡すことが当たり前という意識に変わったからだとは思うけれど。人に与えることは苦ではない、他者から何も奪わないからだ。自分が少し損をしているくらいがちょうど良いと思っていた。

人に与えて、与えて、与えた分だけ、何も考えずに自分の好きなことができるとも思っていた。

それが、私にとっては小説を書くということで、人に優しくして、人を守って、人のために尽くして、正しく優しい私でいる。だからこそ、私は小説を書くことを許されていた。その他の、私が楽しいと思うことをすることを許されていたと考えていた。

与えてから自分のしたいことをする、人に優しくしているから私は笑うことが許されているし。普段から愛情を与えているから安心感があったのだとも思う。

 

だけど、与えていた物が結局自分の視点だけの、自分勝手な思い込みだったと気づいた時に自分とい人間の身勝手さに気がついた。それから本当に何をするにも億劫になった。自分の中の与えたいという気持ちに不信感が募った。信じられなくなった。私にとって与えるということはとても楽しいことだったのにそれに大きなバグがすみついたのだ。けれどその日から、それから逃げようと、逃げるために、良い人間になろうとしてきた。

 

どうせ自分が愛されたいだけ、

どうせ自分が好かれたいだけ、

どうせ自分が得をしたいだけ、

自分が得たいだけ。それだけ。

 

だけれど、苦なく何かを与えるということは上記のことを必然的に得ることになる。
それがとてつもない快楽物質だからこそ止められないのだ。

得ようとすればするほど得られなくなる。
与えれば与える程得ることができる。

正直その言葉は使っている人によって、【得る】【与える】の視点が大きく異なっているのだろうと思うのだ。

私のソート機能が鈍って、このジャンルに大きな不和のジャンルカードが置かれている。その大きなカードが、ソートの一番上からどこうとしない。

それが、得る・与えるに、気持ち悪さ・罪悪感を見せている。
そのカードが何なのか。カードをひっくり返したいのなら、常識をひっくり返せばいい。

言葉から得る情報の見方をやさしいものに変えるのだ。

 

例えば、私は、レビュー・紹介記事を書くことで広告収入を得ている。
何かを面白いと宣伝しそれを伝えることでお金を得るのはちっとも悪いことではない。それそのものの面白さや、体感できることを、嘘偽りなく伝えることが出来るのならば、それは、それを欲しいと思う人の手掛かりになっているからだ。

仮にだが、私は彩雲国物語が大好きだ。これに似通った物語が読みたくて読みたくてたまらない、そのアンテナを張って、似た作品の情報を得た時に、彩雲国物語で味わった感覚を味わえたのなら私は喜ぶだろう。

もちろん、今ハマっている日プも同じだ。Twitterで彼女の名前を見つけなければ、きっとサバ番などには一生無縁だったし。そもそも日プがなければ、彼女を見つけることができなかったし。全てのことが奇跡のように愛おしいと感じられる、そこに繋がる全てのことが、どんな意図があったにせよ【私を幸せにしてくれるもの】というソートの上位を満たすのであれば、そこにこめられている意図なぞ全てどうでも良いのだ。

そう、考えた時に、私は作品の紹介文やレビューを書く。
そうして私は、そこでお金を得る。誰かの素晴らしい作品と、誰かのこんな物語を読んで幸せを体感したいの想いを繋いだきっかけが私のレビューになるのならば、私は誰かの幸せの手助けをしたことになる。

正直そこに実際の私の意図など全く関係ないのではないだろうか。

その作品のレビューを書いている人はたくさんいて、その作品はそこにあって、欲しいと思う人の手にどのように渡るのかは分からない。

私の気持ちや書き方がたまたまその人のパンくずになっているのかもしれない。
そう思えば、私は結構良い事をしているんだって思えないだろうか。

 

得たいと望んでも良い、本当に得たいと望むのならば、それは与えることに繋がるからだ。

 

言葉の定義など曖昧で、私たちは瞬時にその言葉の持っている意味と自分の中の価値観をくっつくえて情報を整理するけれど。貴方がその言葉に苦しいと感じるのならば、その言葉へ持っている意味を変化させてほしい。貴方にやさしい言葉にしてほしい。

 

次いで、持っている言葉で重いのはお金だ。これすらも次は変えようと思うけれど。

そう、お金をもらっているのなら、もっと分かりやすくしっかりやるべきだと思うけれど、ここはお金をもらってるわけではないから、自分が今日はやめようと思えばやめられるっていう、観念を持っている。

 

これも、変えてしまえそうだなと思った。