移リ木徒然

思ったことをかくやつ

与えること

与えることを考えれば自然に自分は得ることになる!

それは、知っている~~~!!と、思わず思ってしまった。

それに、息が詰まるほどの引っ掛かりを感じるから困ってしまう!

く、苦しい~~!!!

自分のしている行動が結果的に誰のためになるのか。
そして、何を思ってこの苦しいは発生しているのかを因数分解してみようと思う。

 

私は根本的に、自分は苦しいままで他人に何か貢献することを与えることだと思っている。お金を払ってサービスを受けることも私にとっては与えることだ。というか、対価を払って得る。それはどんな関係性であるにせよ最低限の礼儀だと心得ている。何かをそのまま貰うなど許せない。他人から何かを奪っていることになるからだ、何かを渡すということは、その裏で何かを得ようと考えている。それか日頃の感謝があるかとか。自分はどうかと考えてみると、普段色々なものを貰っているからお礼の気持ちを込めて渡すことが多い。お金をかけて何かを渡して愛されようと思ったこともある。何を思ったか漫画の全巻を渡したこともあるし……その時は、渡すことが当たり前という意識に変わったからだとは思うけれど。人に与えることは苦ではない、他者から何も奪わないからだ。自分が少し損をしているくらいがちょうど良いと思っていた。

人に与えて、与えて、与えた分だけ、何も考えずに自分の好きなことができるとも思っていた。

それが、私にとっては小説を書くということで、人に優しくして、人を守って、人のために尽くして、正しく優しい私でいる。だからこそ、私は小説を書くことを許されていた。その他の、私が楽しいと思うことをすることを許されていたと考えていた。

与えてから自分のしたいことをする、人に優しくしているから私は笑うことが許されているし。普段から愛情を与えているから安心感があったのだとも思う。

 

だけど、与えていた物が結局自分の視点だけの、自分勝手な思い込みだったと気づいた時に自分とい人間の身勝手さに気がついた。それから本当に何をするにも億劫になった。自分の中の与えたいという気持ちに不信感が募った。信じられなくなった。私にとって与えるということはとても楽しいことだったのにそれに大きなバグがすみついたのだ。けれどその日から、それから逃げようと、逃げるために、良い人間になろうとしてきた。

 

どうせ自分が愛されたいだけ、

どうせ自分が好かれたいだけ、

どうせ自分が得をしたいだけ、

自分が得たいだけ。それだけ。

 

だけれど、苦なく何かを与えるということは上記のことを必然的に得ることになる。
それがとてつもない快楽物質だからこそ止められないのだ。

得ようとすればするほど得られなくなる。
与えれば与える程得ることができる。

正直その言葉は使っている人によって、【得る】【与える】の視点が大きく異なっているのだろうと思うのだ。

私のソート機能が鈍って、このジャンルに大きな不和のジャンルカードが置かれている。その大きなカードが、ソートの一番上からどこうとしない。

それが、得る・与えるに、気持ち悪さ・罪悪感を見せている。
そのカードが何なのか。カードをひっくり返したいのなら、常識をひっくり返せばいい。

言葉から得る情報の見方をやさしいものに変えるのだ。

 

例えば、私は、レビュー・紹介記事を書くことで広告収入を得ている。
何かを面白いと宣伝しそれを伝えることでお金を得るのはちっとも悪いことではない。それそのものの面白さや、体感できることを、嘘偽りなく伝えることが出来るのならば、それは、それを欲しいと思う人の手掛かりになっているからだ。

仮にだが、私は彩雲国物語が大好きだ。これに似通った物語が読みたくて読みたくてたまらない、そのアンテナを張って、似た作品の情報を得た時に、彩雲国物語で味わった感覚を味わえたのなら私は喜ぶだろう。

もちろん、今ハマっている日プも同じだ。Twitterで彼女の名前を見つけなければ、きっとサバ番などには一生無縁だったし。そもそも日プがなければ、彼女を見つけることができなかったし。全てのことが奇跡のように愛おしいと感じられる、そこに繋がる全てのことが、どんな意図があったにせよ【私を幸せにしてくれるもの】というソートの上位を満たすのであれば、そこにこめられている意図なぞ全てどうでも良いのだ。

そう、考えた時に、私は作品の紹介文やレビューを書く。
そうして私は、そこでお金を得る。誰かの素晴らしい作品と、誰かのこんな物語を読んで幸せを体感したいの想いを繋いだきっかけが私のレビューになるのならば、私は誰かの幸せの手助けをしたことになる。

正直そこに実際の私の意図など全く関係ないのではないだろうか。

その作品のレビューを書いている人はたくさんいて、その作品はそこにあって、欲しいと思う人の手にどのように渡るのかは分からない。

私の気持ちや書き方がたまたまその人のパンくずになっているのかもしれない。
そう思えば、私は結構良い事をしているんだって思えないだろうか。

 

得たいと望んでも良い、本当に得たいと望むのならば、それは与えることに繋がるからだ。

 

言葉の定義など曖昧で、私たちは瞬時にその言葉の持っている意味と自分の中の価値観をくっつくえて情報を整理するけれど。貴方がその言葉に苦しいと感じるのならば、その言葉へ持っている意味を変化させてほしい。貴方にやさしい言葉にしてほしい。

 

次いで、持っている言葉で重いのはお金だ。これすらも次は変えようと思うけれど。

そう、お金をもらっているのなら、もっと分かりやすくしっかりやるべきだと思うけれど、ここはお金をもらってるわけではないから、自分が今日はやめようと思えばやめられるっていう、観念を持っている。

 

これも、変えてしまえそうだなと思った。